だから、私は風俗嬢になった。
 朝、母から祖父の訃報を知らす電話があった。すぐ実家の福島に向かうと伝えると、同様に一人暮らしをしている弟と合流して来い、とのことだったので、東京駅で待ち合わせることになった。

 数年前から入院していた祖父がもう長くないことは随分前から知らされていた。また、生前の祖父は厳格で立派な人ではあったが、人嫌いの頑固者で距離もあった。それもあって、余り驚きも悲しみもなかった。それでもやはり、祖父の命日が初めて身体が売れた日と重ならなかったことに安堵した。

 金に困っているわけでなかった。高給取りではないが、少し節約を意識すれば十分に暮らしていけた。物欲も強くなく、趣味もなかった。

 ただなんとなく、もったいなかった。
 性欲という事象と女体という物質があり、これには需要があるようだった。また、暇を減らし、欲に溺れることで、様々なことから逃げ出せるような気がした。


 だから、私は風俗嬢になった。
 初めての客は予想よりも優しいものだった。薄暗い、ベッドを置くためだけの部屋で、挨拶した私に許可を取り、恐る恐る私を抱き締めた。
 服を脱ぎ、また抱き合う。まだ、何も始まっていないのに、背の割には大き目の性器がもうそそり立っており、互いにそれを笑う。そして、キスをした。

 キスをすると、あっという間だった。イソジン独特の臭いが唾液で流される。押し倒され、上半身がベッドに転がる。足が痛くなりそうで、身体を上にずらす。そのまま二重の垂れ目が充血しているのを見ていると、髪を梳かすようになでられた。だから目を瞑り、首に腕を回した。

 なぞり、舐められ、甘噛みをする。揉まれ、つままれ、指を入れられる。
 ここ、好き? こうですか? これは平気? ここ、いいですか? 指、増やしていい? 気持ちいいですね。うん、気持ちいいね。
 作動音が聞こえるほど暖房が利いた部屋で、背中をなでる手は湿っており、息は荒い。けれど、時折触れ合う手と足は酷く冷たかった。

 股を開くと、腐敗した果物のような臭いが塩素のような臭いとまじって、性器と性器が合わさると、ぐちゃりと音がした。尻を伝う液は生温く、性器は熱い。腰を動かすほど、臭いは強くなって、水音が激しくなって、喉から出る声を飲ませあった。様々な感覚が混在して、溶けるようだと思った。


 弟は先に待ち合わせ場所に着いていた。新幹線発車まで時間があったので、改札外のベンチに座った。私が黙っていると、弟から話しかけてきた。
 以前は単語しか話さなかったサッカー少年が政治経済を論じる男になっていた。違和感は覚えたが、黙って相槌を打っていると、徐々に私に色々質問してくる。話がいやな流れになってくるのを感じ、慌てて弟自身に触れる。

 就活に打ち込んだ結果、半年でTOEIC800点を超えたこと、簿記2級を合格したこと。今も新しい資格の勉強をしていること。大手証券会社の内定を取れたこと。
 毎日来る母の電話を思い出し、口を動かすことで、笑って賞賛できた。弟はそれに気分を良くし、自分の苦労を語る。祖父の葬儀に向かうにも関わらず故人に触れないことよりも、話を逸らせたことに安心した。だが、結局私の話になってしまった。

 2度資格試験を落とした私への励まし、仕事を辞めたいと言った私への叱咤、私の将来についての追求。
 全く連絡を取っていないのに、よく知っている。きっと多方面に相談しているんだろう。丁寧に磨き上げられた革靴と爪先の塗装が剥がれ欠けたパンプスを見て、面倒という言葉で纏めて飲み込む。

 よくある話だ。母親が娘に愛と自己投影を重ね、理想を背負わせるのも。二人目、しかも息子に甘く、監視の目が緩いのも。傲慢と言われようが、自分で考え、決定する男がひとかどの人間になるのも。母親が泣くからと言い訳し、全てを人任せにした女が社会に出てやっていけなくなるのも、当然の結果だ。

 自分のことちゃんと考えてるの、辛いことがあっても逃げるな、何に悩んでいるの、もう大人なんだから現実を見ないと、何が怖いの、こんなに心配しているのにどうして黙っているの。

 弟の言葉は母の電話にそっくりだった。『大丈夫』という言葉で線引きをしても踏み消されるが、それを繰り返すことしかできない。バッグ、スマホなど漁られても問題ないことをさっと確認しつつ、昨晩のことを思い出す。

 激しく穏やかな行為で壊されることはなかった。それどころかどんなに身体がどろどろに交ざっても、個は決して荒らされなかった。そこにはルールがあって、それを遵守していた。ルール以外でも視線と言葉が交わることで、境界を超えることなく尊重し合った。

 あそこに嘘はあっても、関係の名前はなく、愛もない。けれどもこの関係と比べると、どれほど道徳的で、自由で、情があるんだろう。
 発車時刻が近づき、何とか話を終わらせられた。買っておいてくれた弟から切符を受け取り、自分の分を支払おうと財布を開く。中身を確認して、ふと思いついた。

「切符ありがとう。これ、内定祝いとして」
 二人分の切符料金を受け取り、弟は戸惑いつつ喜ぶ。
「いいの?」
「いいよ、1万8千円ぽっちだけどね。早く行こう」
「え、さんきゅ。ラッキー」
 いそいそと財布に仕舞う様子を見て、やっぱりお前はいい子だと言う母を思い出す。思わず、笑った。

 ねぇ、達仁。それ、お前の姉貴の値段だよ。
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