彼が塗ってくれたネイルの残滓を見つめながら
彼は、ファミレスでソファー席をかならずわたしに譲ってくれた。夜中にわたしをコンビニの外に置いていくことは絶対にしなかった。だけど、わたしが車道側を歩いていることには気が回らない、そんな人だった。

わたしの定位置は彼の右側だった。わたしの左手は常に彼の腕の骨格を這い、指先に辿りついたあと、温もりを分け合う。
あとになって判明したのだが、それがない日は、わたしの機嫌が悪いと思っていたようだ。
だから「今日はなんかあった?」と頻繁に尋ねてきていたのか。だけど特に意味はない。

彼の機嫌も悪いときはほとんどなかったけれど、体調が悪い日、彼は、いつもより前を向きがちだから分かる。目を合わせると、わたしより先に目を逸らす。その上、バイバイするとき、絡み合った指にこもる力が、いつもよりちょっと強くなる。


それをわたし以外の誰も知らないだろうし、彼自身も知らないと思う。


エスカレーターをくだるとき、彼は必ずわたしに寄りかかって、わたしに触れたがった。
触れたがりで甘えたがりのわたしたちは、一年経って前戯もそこそこにやっとセックスをした。
あんまり気持ちよくなかったのも、一周まわっていとおしかった。

ずっとわたしの手が届くところにいてほしかった。

末っ子どうしのわたしたちはお互いに依存していたけれど、それでも少しだけ、彼のほうが自立していたと思う。

彼は、よくわたしのネイルを褒めてくれた。わたしも彼と会うときは特に丁寧に塗り直した。
一度、彼が「塗ってみたい」と目を輝かせたことがあった。
彼の指先は、緊張しているのか少し小刻みに揺れていて、思わず笑ってしまったけれど、彼の真剣な瞳孔がわたしを捉え、そしてそのまま、爪も乾かないままに、わたしたちはキスをした。
触れたところはやっぱりあつかった。
絆されてゆく脳を実感しながら、わたしはすべてを彼に委ねていた。

塗り終わった爪を見てみれば、後日友達から「そういうデザイン?」と訊かれたくらい、ガタガタで歪だった。
だけどその爪を見るたび、たとえばバイト中とか、大学の講義中とか、彼が触れたところの体温のあつさを、わたしは無意識に思い出した。


そのときのネイルは、爪が伸びきって、塗った部分がなくなるまで残しておいた。


あと少しでまっさらな爪に生え変わるころに、彼が口にした別れ話を、わたしはネイルの残滓を見つめながら、息をひそめて聞いていた。


別れるとき、「最後にひとつだけお願い、ネイルを塗り直して欲しい」と頼んだけれど、おれ、下手だし、前みたいに汚くなるから嫌だと断られた。
ネイルだったら、手紙という永遠に残るものよりは短く、セックスという一時的なものよりは長く、彼との最後を留めておいていられると思ったのに。

彼は、ファミレスでソファー席をかならずわたしに譲ってくれた。夜中にわたしをコンビニの外に置いていくことは絶対にしなかった。だけど、わたしが車道側を歩いていることには気が回らない、そんな人だった。


わたししか知らない、誰も知らない、彼すら知らない、はずだった彼の一面を、きっと彼の今の彼女は知っているのだろうと思う。
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