5キロ痩せてかわいい服も着れるようになったのに。
「爪汚いな、おまえ」
昔から血が滲むほど爪や指の皮を噛むのが癖だった私はその先輩の一言で噛み癖を治す決意をした。
私にハグやキスはする癖にそれ以上はしてこない臆病な先輩。
始まりは、サークルの宅飲みで泥酔した私を先輩がベットに運び、一緒に潜り込まれキスされたこと。
「酔ってて覚えてない」 「ちょっとした事故」
それで済ませれば楽なのに、大学生によくある「ちょっとした事故」が何回か続いた私は本気になってしまった。
けれど私は知っていた。
先輩が、もう卒業したあの人を思い続けてることも。
私に初めてキスした日に、あの人の名前を呼んだことも。
あの人が先輩の初めてであることも。
全部。
あの人は、卒業コンパで長く細い指先にグラデーションのネイルをしていた。
プライドばっかり高い私は、あの人の代わりにされていることに腹が立っていた。
だから、爪を伸ばした。毎日爪ヤスリで形を整えて、ハンドクリームとネイルオイルで保湿して、伸びてきたら淡いピンクのネイルを塗った。
どうせなら、とダイエットやヘアケア、メイクなどにも力を入れてみた。
恋をすると女の子は綺麗になるって本当だね、なんて同期には笑われたっけ。
その努力の過程を知られるのが嫌で、私はサークルの飲み会を4ヶ月断り続けた。
会いたくてしょうがない気持ちを抑えて。
次にキスされそうになったら突き飛ばして笑ってやる、と決めていた。
そんな夏休みも後半に差し掛かったある晩、先輩から「飲もう」と電話が来た。
そろそろ頃合か、と思っていた私はノリノリで返事をして先輩の家に向かった。
久しぶりに家に着くとみんな喜んで私を迎え入れてくれた。
先輩も「ずっと来ないから久しぶりに飲めて嬉しい」と笑っていた。
しかし、先輩は私の爪はおろか容姿について何も触れてこない。
爪先も綺麗なグラデーションネイルにしたのに。
髪も明るい茶髪から艶のあるグレージュにしたのに。
5キロ痩せてかわいい服も着れるようになったのに。
他の人は褒めてくれるのに。
これじゃ意味ない。
その不満がどんどん酒を飲むペースを早め、久しぶりの飲み会というのもあって私は一気に酔いが回った。
朝方目を覚ますと、いつもの様に腕枕をしてない方の手をわたしと繋ぎ眠る先輩がいた。
ブリーチで傷んだ髪。女の子みたいに上向いたまつ毛、膨らんだ涙袋、ピアスの空いた小さなな耳たぶ、大きくて暖かい手のひら。
久しぶりのその光景にふと先輩の髪に手を伸ばす。
暗闇の中で目が合う。
しまった、と思ったが遅かった。
繋いだ手を引き寄せてから解き、その手のひらで私の頬に優しく触れ、深くキスをした。
何度も何度も。
唇が離れたあと、先輩は私の髪を優しく撫でながら
「いつも通りで安心した。」
そう言った。
違う、そうじゃない。
私が欲しかった言葉はそれじゃない。
「可愛いね」「好きだよ」「君だけだよ」って言ってほしいだけなのに。
こんなただの自己満足で終わるなんて。
おまけにキスを拒むこともできず、あの人の代わりにすらなれないことを悟った私は自己嫌悪でぐちゃぐちゃ。死にたくなった。
その後、何度かキスを繰り返し完全に眠った先輩に何も言わずに家を出た。
外では、夏も終わりだというのにセミが鳴いている。
iPhoneで過去に先輩と撮ったツーショットを開き、1枚ずつ右下をタップする。
先輩との思い出が、1つずつ消えていく。
キスで腫れた唇に指を当て、爪を噛む。
噛み癖、治ったはずなんだけどな。
この日のためにと着飾った綺麗な爪から、無機質な苦い味がした。